8.石川啄木の生きざま
啄木は自身の赤裸々な生きざまについて,1909(明治42)年に次のような書き出しで始まる『ローマ字日記』を残している(桑原武夫編訳『ローマ字日記』岩波書店1977年,9頁)。
APRIL
TOKYO 7TH WEDNESDAY, HONGO-KU MORIKAWA-TYO 1 BANTI, SINSAKA 359 GO, GAIHEI-KAN-BESSO NITE.
Hareta Sora ni susamajii Oto wo tatete, hagesii Nisi-kaze ga huki areta. |
そして,この『ローマ字日記』を書く理由について,初日の4月7日に次のように記している(前掲書10-11頁,124-125頁)。ただし,妻節子の学歴であればローマ字の読み書きができるはずであるから,別の目的で書いたのかもしれない。
そんなら なぜ この日記をローマ字で書くことにしたか? なぜだ? 予は妻を愛してる;愛してるからこそ この日記を読ませたくないのだ.―しかし これはウソだ!愛してるのも事実,読ませたくないのも事実だが,この二つは必ずしも関係していない.
そんなら 予は弱者か? いな.つまり これは夫婦関係という まちがった制度があるために起こるのだ.夫婦!なんというバカな制度だろう! そんなら どうすればよいか? 悲しいことだ! |
また文学の苦悩について,17日の日記に次のように述べている(前掲書,56-57頁,169頁)。
ひとりになると,予は またいやな考えごとを続けなければ ならなかった.今月も もうなかばすぎだ.社には前借りがあるし……そして,書けぬ!
‘スバル’の歌をなおそうかとも思ったが,紙をのべただけで イヤになった. あき家へ入って ねていて,巡査につれられて行く男のこと を書きたいと思ったが,しかし筆をとる気にはなれぬ. 泣きたい! 真に泣きたい! “断然 文学をやめよう.”と ひとりで言ってみた. “やめて,どうする? なにをする?” “Death〔死〕!”と答えるほかはないのだ.じっさい予はなにをすればよいのだ? 予のすることは なにかあるだろうか? いっそ いなかの新聞へでも行こうか! しかし 行ったとてやはり 家族をよぶ金は 容易にできそうもない.そんなら,予の第1の問題は 家族のことか? とにかく問題はひとつだ.いかにして生活の責任の重さを感じないようになろうか? ―これだ。 金を自分が持つか,しからずんば,責任を解除してもろうか:ふたつにひとつ. おそらく,予は 死ぬまで この問題をしょって行かねばならぬだろう! とにかく ねてから考えよう.(夜1時.) |
経済的な困窮もあって文学の行き詰まりがひしひしと伝ってくる。人間啄木の生きた姿が100年あまり経過した現代に甦ってくるような気がした。
かなり美人である妹・光子が伝道婦になるため,名古屋のミッション・スクールを受験することとなったことを知り,啄木の故郷「渋民」について,18日の日記は次のように記載されている(前掲書,63-64頁,175頁)。
シブタミ! 忘れんとして忘れえぬのは シブタミだ! シブタミ! シブタミ! われをそだて,そして迫害したシブタミ!……予は泣きたい,泣こうとした.しかし涙が出ぬ!……その生涯のもっとも大切な18年のあいだを シブタミにおくった父と母―悲しい年よりだちには,そのシブタミはあまりにつらく 痛ましい記憶をのこした.死んだ姉は シブタミに3年か5年しかいなかった。2番めのイワミザワの姉は,やさしい心とともに シブタミを忘れている:思い出すことを恥辱のように感じている.そしてセツコは モリオカに生まれた女だ.予とともにシブタミを忘れえぬものは どこにあるか! 広い世界に ミツコひとりだ!
今夜,予は妹―哀れなる妹を思うの情にたえぬ.会いたい! 会って 兄らしい口をきいてやりたい! 心ゆくばかり シブタミのことを語りたい.ふたりとも 世の中のつらさ,悲しさ,苦しさを知らなかった なん年の昔に帰りたい! なにもいらぬ! 妹よ! 妹よ! われらの一家が うちそろうて,楽しくシブタミの昔話をする日は はたしてあるだろうか? いつしか雨がふりだして,雨だれの音がわびしい.予にして もし父―すでに1年たよりもせずにいる父と,母と,ミツコと,それから妻子とを集めて,たとい なんのうまいものはなくとも,いっしょに晩さんをとることができるなら…………. |
家族と離れ東京での一人暮らしの侘しい生活のなか,啄木が父母・妹・妻子と共に食卓につくことができず,家族愛を取り戻したいと念じている啄木のいじらしさが伝ってくる。
この『ローマ字日記』について,『啄木はこの日記を生涯の親友だった金田一京助に預けた際,あなたが見て悪いと思ったら焼いてくれと頼んだそうです。また節子夫人は病死する直前に,「啄木は焼けと申したんですけれど,私の愛着が結局そうさせませんでした」といい残して,啄木の函館時代からの友人宮崎大四郎にこの日記を贈ったのです。その後『ローマ字日記』は市立函館図書館に保管されるようになり,今日に至っています。(ドナルド・キーン稿「ローマ字でしか書けなかった啄木の真実」前掲『新文芸読本石川啄木』,126頁)という貴重なものであることを付記しておきたい。
9.石川啄木とその関係者である文学者
ここで石川啄木本人と交流のあった主な文学者をあげると,次のとおりである。
氏名 | 在命期間 | 死亡年齢 | 出身 | 最終学歴 | 啄木との関係 |
石川啄木 | 1886-1912 | 27 | 岩手・日戸 | 盛岡中学(中退)
正則英語学校 |
― |
金田一京助 | 1882-1971 | 90 | 岩手・盛岡 | 東京大学言語学科 | 高等小学校以来の友人物心両面にわたって啄木を支えた。 |
野村胡堂 | 1882—1963 | 82 | 岩手・彦部 | 東京大学法(中退) | 啄木の軽挙を戒める,よき忠告者。 |
若山牧水 | 1885—1928 | 44 | 宮崎・坪谷 | 早稲田大学英文科 | 啄木の死をみとった。 |
与謝野鉄幹 | 1873—1935 | 63 | 京都 | (学歴はないが徳山女学校
教師・慶応義塾大学教授) |
歌人。「明星」同人。 |
与謝野晶子 | 1878—1942 | 75 | 大阪・堺 | 堺女学校 | 歌人。同上。 |
北原白秋 | 1885—1942 | 58 | 福岡・柳川 | 早稲田大学英文科(中退) | 歌人。同上。 |
森鴎外 | 1862—1922 | 61 | 島根・津和野 | 東京大学医学部 | 作家。「スバル」同人。 |
吉井勇 | 1886—1960 | 75 | 東京 | 早稲田大学(中退) | 歌人。同上。 |
木下杢太郎 | 1885—1945 | 61 | 静岡・湯川 | 東京大学医学部 | 歌人。同上。 |
二葉亭四迷 | 1864—1909 | 46 | 江戸 | 東京外語学校(中退) | 小説家。朝日新聞社で「二葉亭四迷全集」の校正を啄木が担当。 |
夏目漱石 | 1867—1916 | 50 | 江戸・牛込 | 東京大学英文科 | 小説家。朝日新聞社で漱石が主宰する「朝日文芸欄」の校正を啄木が担当。 |
計 | ― | 732 | ― | ― | ― |
平均寿命 | ― | 61.0 | ― | ― | ― |
ここでもわかるように,上記の文学者12名の学歴は東京大学5名,早稲田大学3名,東京外語学校1名,女学校1名,計10名(83.3%)であることから,啄木の学歴コンプレックスの強さも理解できる。なお,明治時代の平均寿命はおよそ44歳であるが,この12名の平均は61.0歳であり,かなり長寿であることがわかる。経済的に余裕のある人が多かったことも一因であろう。一方で,27歳(数え年)で亡くなった啄木がいかに短命であったかを知ることができる。
また,啄木の家族についても,次表の( )で死亡年齢を示したように,きわめて短命家族であった。
啄木(1886—1912,27歳) | (長男)真一(1910,0歳) | ||||||
(長女)晴子 | |||||||
(長女)恭子(1906—1930,24歳) | |||||||
(妻)節子(1886—1913,28歳) | (長男)玲児 | ||||||
(次女)房江(1911—1930,19歳) | |||||||
なお,孫の晴子氏,玲児氏のいずれかの子供である真一氏(ひ孫)は,天逝した啄木の長男と同じ名前である。
ちなみに啄木の結婚は,啄木と節子が20歳(数え年)のときであり,結婚生活は啄木が亡くなる26歳までのわずか6年あまりである。結婚年齢は次表のとおり,明治43年では男性27.0歳,女性23.0歳であるから,かなり早婚であった。ちなみに2015年には男性31.1歳,女性29.4歳と大幅に延びており,平均寿命が男性80.2歳,女性86.6歳であるから,平均の結婚生活の期間は男性が49.1年,女性は57.2年ということになる。
平均初婚年齢の変化 | |||
年 | 男性(歳) | 女性(歳) | 年齢差 |
1910年(明治43年) | 27.0 | 23.0 | 4.0 |
1920年(大正9年) | 27.4 | 23.2 | 4.2 |
1930年(昭和5年) | 27.3 | 23.2 | 4.1 |
1940年(昭和15年) | 29.0 | 24.6 | 4.4 |
1950年(昭和25年) | 25.9 | 23.0 | 2.9 |
1960年(昭和35年) | 27.2 | 24.4 | 2.8 |
1970年(昭和45年) | 26.9 | 24.2 | 2.7 |
1980年(昭和55年) | 27.8 | 25.2 | 2.6 |
1985年(昭和60年) | 28.2 | 25.5 | 2.7 |
1990年(平成2年) | 28.4 | 25.9 | 2.5 |
1995年(平成7年) | 28.5 | 26.3 | 2.2 |
2000年(平成12年) | 28.8 | 27.0 | 1.8 |
2005年(平成17年) | 29.8 | 28.0 | 1.8 |
2010年(平成22年) | 30.5 | 28.8 | 1.7 |
2015年(平成27年) | 31.1 | 29.4 | 1.7 |
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ただし,年齢差は横山が付した。 |
なお,この表から明らかなように,男女とも初婚年齢は延びており,また男女別の初婚年齢差は4.0歳から1.7歳まで縮小している傾向が読みとれる。
文学者のなかには夏目漱石のように『硝子戸の中』,『道草』(1915年)などの自伝小説を残している作家もいるが,啄木のように『ローマ字日記』という形で当時の心情を直接的な表現で残していることは稀有のことと思われる。教員時代に英語も教えていた啄木が,あえてローマ字にしたのも彼なりの考え方があったであろう。当時の夫婦間は現代とは違い,男尊女卑が主流であったことから,啄木は本当の心情を直接妻に伝えることができないので,『ローマ字日記』に託したのではないだろうか。「読ませたくない」のではなく,むしろ「読ませたかった」のだと思われた。この『ローマ字日記』は啄木のひ孫・真一氏に伝えることができた。私はこのようなものを残すことはないだろうと思うが,何か自伝的なものを書きたいと念じた。
―長かろうと 短かろうと わが人生に 悔いはない
という石原裕次郎さんの歌が聞こえてくるような日に―
平成29年3月19日
横山和夫